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フリーアナウンサー 川田裕美さん(41)

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 フリーアナウンサーとして活躍する川田裕美さんは「小中学校では優等生で、周囲の期待を裏切りたくないと頑張りすぎ、高校受験で燃え尽きた」と言います。合格した難関校では授業についていけず、学校を休むようになりました。でも、父親の言葉から、周りに素直に頼っていいことに気づきます。「誰だってできないことがある。弱さを恥ずかしがらず、むしろ周りに見せて、素直に頼って」と呼びかけています。

高校受験で燃え尽き、補習の常連に

フリーアナウンサーの川田裕美さんは、小中学生の時は優等生。高校で授業についていけなくなり、学業不振に陥った

 母が教育熱心で、幼稚園の頃からドリルをやっていました。机に向かう習慣がつき、小中学校では優等生。小学生の時は学習塾や習字、ピアノ、水泳と習い事教室にたくさん通っていました。勉強が得意で、余裕を持って宿題を終わらせていました。

 でも実は、中学生になるとかなり無理をしないと、上位の成績を維持できなくなっていました。「成績が下がったら周りにどう思われるだろう」「親を悲しませたくない」などと考え、頑張っていました。受験の第1志望は、地元・大阪府立の難関高校。成績上位の生徒はそこを目指すのが自然で、誰に言われたわけでもないのに、「この高校に受からないといけない」と思い込んでいました。入試直前の冬は、毎日のように午前2時頃まで勉強しました。

 無事に合格しましたが、目標を達成した私は燃え尽きてしまいました。入学前の春休みに宿題が出されたのですが、苦手だった数学は難しくて、1問目から解けない。量も膨大でした。完全にやる気を失い、宿題をやらないまま入学式を迎えました。そんなことは初めてでした。

 授業はスピードが速く、ついていけませんでした。板書をノートに写しても、自分が何を書いているのか分かっていない。成績はあっという間に下がりました。何とかしたいと、塾を探しては通いました。4、5回は転塾したと思います。

 高校1年の後半から、成績の悪い生徒を対象にした補習授業の常連になり、すっかり自信を失いました。「もう、ここからはい上がるのは難しい」と感じ始めていました。授業中は発言を求められないよう、ずっと下を向いていました。

 人間関係もうまくいかなくなってきました。1年生の頃は休み時間や放課後に、友達と楽しく過ごしていました。徐々に、「こんな成績の悪い私と、誰も仲良くしたくないはず」と思い込むようになっていきました。

学校を週1~2回休み、成績も下がる悪循環

高校は進学校で、勉強ができないことで劣等感にさいなまれ、学校を休みがちに高校は進学校で、勉強ができないことで劣等感にさいなまれ、学校を休みがちに

 高校2年の2学期から、週に1日は学校に行けない日が出てきました。休んだら、ますます授業についていけなくなるとわかっていました。でも、学校から逃げたくて、夜までカラオケなどで遊びました。翌朝は起きられず、昼まで寝ている日が増え、2日連続で休むこともありました。

 出席日数が少なくて、「進級が危ない」と担任に注意されたのは、高2の終わり頃です。学校に行かなくても、親に厳しく叱られたことはありませんでした。母には勉強の悩みも話していたので、様子を見守ってくれたのだと思います。

 ぎりぎり高3に進級しましたが、さらに休みがちになりました。学校に行っても、ますます周囲と壁を作るようになりました。「勉強ができない私に、誰も近寄りたくないんじゃないか」と思っていました。

 授業のノートを見せてもらったり、お昼を一緒に食べたりする友達は1人だけいました。休むと、その友達に申し訳なく思うし、登校しても「私なんかと一緒にいさせて、ごめんね」という気持ちになります。どちらにしても罪悪感と劣等感でいっぱいでした。「学校では自分の存在を消したい」。そんな毎日でした。

 悪循環に陥りながらも、成績を上げたい気持ちは強くありました。でも、1人で抱え込んでいました。母は折をみて、アドバイスや提案をしてくれましたが、「自分でできるから」と聞き入れませんでした。自分のプライドが邪魔をして、先生や友達を頼ることもしませんでした。成績の悪い自分のために時間を割いてもらうのは迷惑だろうとも考えていました。

 同級生は、弁護士や医師など将来の夢に向けて受験勉強を本格化させていました。夏休みになると、私も覚悟を決めて予備校に通いました。足が向くよう、買い物や遊びついでに行ける繁華街に近いところに決めました。

 予備校は、映像授業を個別ブースで見る形式です。高1レベルの基本から、自分のペースで学べました。机に向かう感覚が戻ってくると、案外楽しく、少しずつですが頑張れるようになりました。ただ2学期が始まっても、相変わらず学校の授業にはついていけず、息を潜めていました。

 大学は、昔から国立大を意識していました。「親の期待を裏切れない。それが望まれているコース」と思っていました。でも、受験科目の多い国立大は自分の学力ではハードルが高く、2~3教科に絞れる私立大しか対応できないと自覚していました。滑り止めも含めて多くの大学や学部の試験を受けたかったのですが、受験料だけで数十万円になります。早く親に相談しなければと思いながら、打ち明けられない状態が続きました。

「協力する」父の言葉で気付かされ

高校3年の時、父の後押しが受験勉強で奮起するきっかけに高校3年の時、父の後押しが受験勉強で奮起するきっかけに

 夏休み明けの週末の朝でした。何をどう話すか準備し、思い切って父に声をかけました。「申し訳ないけれど、私立大をたくさん受けてもいい?」。父は理由も聞かず、「裕美のやりたいようにやったらいいし、お金のことなんか気にせんでええ。裕美が納得できるところなら、どこだって協力する」と言ってくれました。中学生からの反抗期もあり、父とは数年間、まともな会話もなかったのに、優しい表情で即答してくれました。一気にわだかまりが消えました。私が悩み、苦労する姿を見ていてくれたんだなと思いました。

 この時、自分は一人じゃなかったんだと気づきました。家族や友達がずっと私を見守り、支えようとしてくれていた、とわかりました。それまでの自分が恥ずかしくなりました。

 そこから、受験勉強に奮起しました。友達には、わからない問題を教えてほしいと頼みました。先生には入試前、小論文の添削を毎日お願いしました。学校でも、弱い自分を見せられるようになりました。

「しんどい君」へのメッセージは、「弱いところも見せていこう」「しんどい君」へのメッセージは、「弱いところも見せていこう」

 人の意見を素直に聞けるようにもなりました。入試本番が近づく中、担任の先生が、国立大の後期試験を勧めてくれました。国語が得意な私に向いていると教えてくれた学部の受験を、私も自然に受け入れることができました。それが、後に入学することになる和歌山大学です。

 中高校生は「自分で何でもできる、何とかしなきゃ」と思いたい時期かも知れません。今、成績などで苦しむ皆さんは、無理しすぎないで、できない自分も認めてあげてください。誰だって弱い部分があり、できないことがあるのは当たり前です。弱い自分を恥じて隠さなくていい。完璧な人間なんていません。弱さを見せて離れていく人はいないし、逆にたくさんの人が助けてくれます。それに気付いてほしいです。

 ◇かわた・ひろみ 大阪府出身。2006年に読売テレビ入社。15年にフリーアナウンサーへ転身し、バラエティー番組、ラジオなどで広く活躍する。現在は「ヒルナンデス!」(日本テレビ系)水曜レギュラーとして出演中。4歳(長男)と2歳(長女)の2児の母。