増築棟の2階は「秘密基地」のよう。書架に収まった画集や写真集の背表紙が色鮮やかだ

 東京の上野公園は、芸術の集積地だ。美術館や博物館が点在する森の一角に、東京芸術大の上野キャンパス(東京都台東区)はある。

上野の森に溶け込むように立つ図書館上野の森に溶け込むように立つ図書館

 その図書館も、木々にうずもれるように立つ。二つの棟で構成され、築60年の既存棟から足を踏み入れると、55の閲覧席を配した空間が広がる。天井を走る格子状の
梁(はり)
は、コンクリートの地肌を生かした重厚な造りだ。

 音楽学部作曲科3年の鷲山幸希さん(21)は、五線紙と向き合っていた。詩人・萩原朔太郎の「鶏」に曲をつける課題に取り組んでいた。手元には作曲家・三善晃の歌曲集。「とにかく楽譜が充実しています。静かな環境で、ここでなら作曲に集中できるんです」と話した。

 レコードやCDを含む収蔵資料は42万点。うち楽譜は8万冊近くに上る。驚いていると、資料サービス係長の西山朋代さん(56)が、書庫からバッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の楽譜を持ち出してきてくれた。

 その数、約30冊。第1番の前奏曲は「アヴェ・マリア」の伴奏に使われていることでも有名だという。「それぞれ指遣いや強弱記号などが違っている。同じ曲でも、これだけの種類の楽譜がある」と西山さん。奥深さに感嘆した。

 蔵書の多くは、2017年に完工した増築棟にある。3階建ての建物の2階は黒を基調にした2層構造で、吹き抜けに立つと「中2階」と呼ぶ上層の書架も見える。この2層に収められているのは、約7万5000冊の画集や写真集。赤や青、黄といった色鮮やかな背表紙が黒い書架の中に浮かび、きらびやかだ。

 大学院で版画を専攻する久保田智広さん(33)が手にしていたのは、現代アートをけん引する米国のフォトグラファーの写真集など3冊。「アート関連の書籍は装丁も一つの作品です。様々なアイデアを得るために専門以外の本にも触れるようにしています」と教えてくれた。

階段の踊り場は小さなステージ。閉館の生演奏が披露されることも階段の踊り場は小さなステージ。閉館の生演奏が披露されることも

 増築棟の地下1階から3階まで貫く階段スペースは、教会のように音が反響する。2階と3階の踊り場は、音楽家の卵たちの小さなステージになっている。夏休みや春休みの期間中、ここに立って、閉館を告げる午後5時のチャイムの代わりに演奏を披露しているという。

 これまで、バイオリンやハープ、尺八など多彩な楽器が奏でられてきた。今春、大学院を修了して図書館でアルバイトをしているフルート奏者の石田みそらさん(25)は、2回の演奏歴がある。「友人も聴きに来てくれ、アットホームな演奏会となりました」と振り返る。

 古今東西の美術や音楽にまつわる収蔵資料の中で、特に貴重なものは約1200点。学生たちが「卒業制作」で手がける作品も、後に芸術家として大成するまでの軌跡をたどるのに貴重な資料だ。

 とはいえ、学生生活の集大成として打ち込んだ絵画や彫刻などは、そのまま保管できない。その一つ一つを撮影して、アルバムにまとめている。最古の1冊は、1900年(明治33年)の制作集だ。

 美術学部教授で、図書館長の松下計さん(64)は言う。「ふと手に取った1冊との出会いが、思いがけない発想の扉を開いてくれることがある。芸大の図書館は、学生や教職員たちのインスピレーションの源になっている」

 ここは先人の知恵を授け、表現者の感性を育む場所なのだと感じ入った。

文・松本将統

写真・飯島啓太

[至宝]日本ピアノ教育のはじまり

 著者であるドイツの作曲家名を冠したピアノの教則本「バイエル」。日本には1879年(明治12年)、東京芸大の源流の一つで明治政府が文部省に設けた「音楽
取調掛(とりしらべがかり)
」に伝わったのが最初とされ、貴重書庫に保管されている。

 中表紙には「文部省書庫」の角印が押され、「十六ノ壱」の朱の文字。全部で16冊入ったうちの1冊目という意味だ。現在も芸大に残るのは、うち10冊。使い込まれた楽譜は手擦れで傷み、端には和紙で補修された跡が見える。

 資料サービス係長の西山さんは「このバイエルでピアノを習得した学生が教員となり、全国に広めていったのだろう。日本におけるピアノ教育の礎だ」と語る。

[学長に聞く]持ってめくって本と対話…日比野克彦さん(66)

 本には重さや厚みがあります。「モノ」として、そこに存在しています。本を持っている時の重さ、ページをめくる時の触感、におい――。AI(人工知能)とのやり取りでも知識は得られるかもしれませんが、「第六感」とも言われるひらめきは自分で持ったり、めくったり、実在するモノとの対話から生まれてくるのではないでしょうか。芸術を学ぶ学生に、大切にしてほしい観点です。

 芸大の図書館には、美術書や楽譜、レコードなどを保存していく役割があります。周辺の文化施設と連携しながら、コミュニケーションの場としても活用していきたいと考えています。

東京芸術大

 ■大学概要 ともに1887年(明治20年)創立の東京美術学校と東京音楽学校を統合し、1949年(昭和24年)に設置された国立唯一の総合芸術大学。絵画や彫刻など7学科を擁する「美術」と、作曲や声楽など7学科を持つ「音楽」の2学部がある。大学院と合わせた学生数は約3300人。国内外で活躍する芸術家を多数輩出し、前身時代を含め卒業生には日本画家の東山魁夷氏や平山郁夫氏、音楽家の坂本龍一氏らがいる。上野と取手(茨城県取手市)、横浜、千住(東京都足立区)の4キャンパスがある。

 ■図書館 上野キャンパスの図書館はA棟(既存棟)とB棟(増築棟)で構成され、いずれも地上3階、地下1階建て。延べ床面積は計約5300平方メートル。他で資料の閲覧や入手が難しい場合に限り、申請の上で学外者も利用できる。取手キャンパスには約2万7000点を収めた分室がある。

■図書館の写真特集は
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