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15歳で1人で生きる決意、本屋大賞の作家・凪良ゆうさんを絶望から救った「物語」…STOP自殺 #しんどい君へ

2024-03-25T16:15:33+09:00

作家 凪良ゆうさん 50歳  今年、「 汝(なんじ) 、星のごとく」(講談社)で2度目の本屋大賞を受賞した作家の凪良ゆうさんは、小学生の頃に児童養護施設に入所し、15歳で働き始めました。幼少期のつらい状況を救ったのは、漫画や児童書などの物語でした。自身の小説で、同性愛や血のつながらない親子、わかり合えない家族など生きづらさを抱える人生を描いてきた凪良さん。「他の誰かと比較しなくていい。自分にとっての幸せを見つけて自分の人生を生きてほしい」と願います。 「ハンバーグ」と呼ばれ外見に孤独感、サッカー・鈴木武蔵さん「好きなもの磨けばいつか見返せる」…STOP自殺 #しんどい君へ 母親が出ていき1人に 気が抜けない施設での生活作家の凪良ゆうさん(講談社提供) 母子家庭で育ちました。母は仕事の関係などで家にいないことが多く、小学校低学年の頃から料理も洗濯も掃除も、全て一人でやってきました。小学6年生の時、10日間ほど一人で過ごし、お金も食べ物も底を尽きそうになったことがあります。「どうしよう」と不安になりましたが、友達に知られたくないという子どもなりの見えやプライドもあって、誰にも言えませんでした。  人間ってすごく不思議で、度を越えると、怖さも苦しみもつらさも感じなくなってしまう。感覚が 麻痺(まひ) していたのだと思います。  担任の先生が異変に気づき、家にまで来て助けてくれました。 母はそのまま帰ってくることはなく、その後は、結婚して家を出た10歳上の姉の家や、姉の夫の実家を頼って半年ほど転々としましたがうまくなじめず、児童養護施設で暮らすことになりました。 施設では、一つの棟に住み込みの保育士1人と、小中学生の男女10人ほどとで共同生活を送りましたが、心に傷を負い、問題を抱え、誰にも心を開かない子が圧倒的に多かった。大人の前ではニコニコしていても目は笑っていなくて、陰で暴力を振るうのは日常茶飯事。緊張と警戒を強いられ、気が抜けませんでした。インタビューでは、幼少期の過酷な境遇を語った(講談社提供) そんな中、学校は、唯一普通の子どものように振る舞える場所でした。中学卒業後に就職して逃げるように施設を出る子は多かったけれど、少しでも普通の子になりたくて私は高校に進学しました。でも、高1の夏休み明けに自主退学しました。 学校指定ではない綿の開襟シャツで登校したところ、サッカー部の顧問だった先生に門の前で「帰れ」と追い返されたことがきっかけです。その先生は「服装の乱れは心の乱れ」と生徒には厳しい一方、自分はパンツ1枚でグラウンドを歩くような人でした。 今からすると、そんな小さなことでと思うけれど、私は幼い頃から大人の都合で振り回されてきました。「これ以上、無意味で不条理で矛盾したことに従うのは嫌だ」と、それまで抑え込んでいた怒りが爆発した瞬間だったのでしょう。幼いころから他人の中で常にビクビクと身を縮め、心から幸せだと思うことは一度もなかった。だったら一人で生きていったほうがマシじゃないかと、諦めて開き直ったのかもしれません。 1 2 あわせて読みたい  悩んだときの相談先一覧…SNSでも相談できます 小さな目標、1日乗り切る…亀田興毅さん「達成することで強くなる」 コンプレックス武器に変え五輪へ、大林素子さん「悔しさ、いつかパワーに」 母に代わり日々家事、徳井健太さん「つらい環境変えてもいい」…STOP自殺 #しんどい君へ

15歳で1人で生きる決意、本屋大賞の作家・凪良ゆうさんを絶望から救った「物語」…STOP自殺 #しんどい君へ2024-03-25T16:15:33+09:00

母に代わり日々家事、徳井健太さん「つらい環境変えてもいい」…STOP自殺 #しんどい君へ

2024-03-25T16:15:32+09:00

お笑いコンビ「平成ノブシコブシ」 徳井健太さん 42歳 今振り返ってみれば、10代の自分は、日常的に家族の世話をする「ヤングケアラー」でした。 15歳で1人で生きる決意、本屋大賞の作家・凪良ゆうさんを絶望から救った「物語」…STOP自殺 #しんどい君へ  中学生だった頃、母親が精神を病み、部屋にこもりがちになりました。当時父親は単身赴任中だったため、母に代わって家事をこなしました。食事作り、洗濯…それが当たり前だと思っていた今利幸撮影 学校帰りにスーパーに寄って食材を大量に買い込み、チンジャオロースやマーボー豆腐など毎日の食事を作りました。  6歳下の妹はその頃小学校に入学したばかり。妹の体操着を洗ったり、遠足用の弁当を用意したりするのも僕の役目でした。 だから、一家だんらんで食卓を囲んだり、家族旅行をしたりすることもありませんでした。 でも、「大変だな」「つらいな」と感じたことは一度もありません。家族が大変だったら手伝う。それが当たり前だと思っていたからです。18歳で故郷離れ上京、吉本興業の養成所へ 学校に友達はおらず、唯一の心のよりどころはテレビのお笑い番組でした。特に「ダウンタウンのごっつええ感じ」に夢中になりましたね。18歳の時に北海道を離れ、東京にある吉本興業の養成所に入った 自分でも気付かぬうちに面白いことを口にしていたのかもしれません。高校卒業後は調理の専門学校に進もうかと考えていると、同級生に「徳井君、お笑いやったらいいんじゃない?」と言葉をかけられたのです。 「とにかく家を出たい」との強い思いもあり、北海道を離れ、18歳で東京にある吉本興業の養成所に入りました。「お前は礼儀がなっていない」 人前に出るようになると、変わった生い立ちや非常識な言動が面白く受け止められました。ただ、年齢が上がるにつれてあまりウケず、逆に「お前、大丈夫か」と心配されるようになりました。 35歳くらいだったでしょうか。ある日、吉本の先輩の小籔千豊さんから「お前は礼儀がなっていない」と説教を食らったのです。小籔さんはすごく怒っていましたが、初めて「愛情を受けた」ような感じがしました。 僕は親にきちんと育てられず、自分本位に振る舞っていたのだと思います。にもかかわらず、周りが注意しなかったのは、僕が不幸な家庭で育ったことを気の毒がっていたからだと気が付きました。おせっかいと思われてもいい、手をさしのべて 大人になってから周りの人たちに恵まれ、30歳からの人生の方が楽しいことが多い。今この場所にいられるのは、あのとき「環境を変えたい」と思ったからです。だから、今つらい環境にいる子がいたら、「逃げてもいいよ」と伝えてあげたいです。 昔は「ヤングケアラー」という言葉もなく、当時の僕は誰かに相談しようとも思いませんでした。でも、もしあの時、誰かが声をかけてくれ、話を聞いてくれていれば違ったかもしれない。 自分がそうだったように、過酷な環境でも「苦しくない」「それが普通」と思いながら、耐えている子どももいると思います。その子を助けられるのなら、おせっかいと思われてもいい。周りにいる人は声をかけ、手をさしのべてあげてください。   徳井健太 (とくい・けんた) 北海道出身。2000年に吉村崇さんと「平成ノブシコブシ」を結成。吉本興業所属。ユーチューブチャンネル「徳井の考察」を開設するほか、「敗北からの芸人論トークライブ」を定期開催中。著書に「敗北からの芸人論」(22年、新潮社)がある。 あわせて読みたい  悩んだときの相談先一覧…SNSでも相談できます 宮本亞門さん「『普通』じゃなくていい。誰にでも無限の可能性」 小さな目標、1日乗り切る…亀田興毅さん「達成することで強くなる」 「ハンバーグ」と呼ばれ外見に孤独感、サッカー・鈴木武蔵さん「好きなもの磨けばいつか見返せる」…STOP自殺 #しんどい君へ

母に代わり日々家事、徳井健太さん「つらい環境変えてもいい」…STOP自殺 #しんどい君へ2024-03-25T16:15:32+09:00

「ハンバーグ」と呼ばれ外見に孤独感、サッカー・鈴木武蔵さん「好きなもの磨けばいつか見返せる」…STOP自殺 #しんどい君へ

2024-03-25T16:15:32+09:00

鈴木武蔵さんの動画はこちらプロサッカー選手 鈴木武蔵さん 29 ジャマイカ人の父と日本人の母を持つサッカー選手の鈴木武蔵さん。子どもの頃は肌の色や髪質が周囲と違うことで、同級生から「ハンバーグ」などと呼ばれ、いじめられました。周りとは違う外見に疎外感や孤独感を抱いていましたが、得意なサッカーが「別の世界」に連れて行ってくれました。同じ境遇で悩む若者に、「今いる『小さな世界』から逃げ出したっていい。好きなものを磨けばいつか見返せる時が絶対にくる」と呼びかけます。 15歳で1人で生きる決意、本屋大賞の作家・凪良ゆうさんを絶望から救った「物語」…STOP自殺 #しんどい君へ ベビーパウダーで肌を白くサッカー選手の鈴木武蔵さん。父はジャマイカ人、母は日本人だ 6歳の頃、ジャマイカ人の父と日本人の母が別居し、ジャマイカから日本に来て母の地元である群馬で暮らし始めました。  日本では、街中を歩くと指をさされたり、通りすがりに「黒い」と言われたりして、人の多いところでは母の陰に隠れて歩いていました。 そして、小3になると、それまで仲がよかった友達の態度も変わってしまいました。ある日の休み時間に教室で、「おーい、ハンバーグ」「フライパン」と呼びかけられたのです。「ふざけるな」と飛びかかり、ケンカになりました。仲裁に入った担任の先生からは「両方が悪い」と言われました。なぜ僕が悪いのか納得できませんでしたが、そのことを話すと余計に自分が傷つく気がしました。反論することをやめ、心を閉ざすようになりました。「僕は一体、何人なんだろう」。子どものころは常に思い悩んでいた 悪口に傷つき、泣きながら帰ったことも度々ありました。母は当時、複数の仕事を掛け持ちして僕と弟を養ってくれていました。そんな母には見られたくない。家の前で涙をぬぐってから玄関を開けていました。肌の色を白くしようと、家でベビーパウダーを体中に塗りたくったりもしました。でも、シャワーを浴びるとすぐに元通り。白く濁って流れる水や、鏡に映る元の自分の姿を見ると、より悲しみが大きくなりました。 肌の色も髪の毛の天然パーマも大嫌いでしたが、母は「そのままのむっちゃんが大好き」と優しく諭し、愛情を注いでくれました。ただ、周りと違う自分をどうしても好きになれなかった。「僕は一体、何人なんだろう」と常に思い悩んでいました。いじめ忘れる「別の世界」 友人に誘われ、小2から始めたサッカーをしているときだけは、そうした悩みとは「別の世界」にいるように感じました。学校でいじめられても孤独を感じても、ピッチでは関係ない。チームメートは見た目を気にせず、ゴールを決める度に駆け寄ってくれました。そのことがとてもうれしく、対戦相手から「あいつ、黒くない?」などと心ない言葉をかけられても、「絶対に負けないぞ」との気持ちをより強くしました。高2の時、U-16(16歳以下)日本代表に選出された。会場から声援を受けると、自分が日本人として認められた気がした 高2だった2010年、U-16(16歳以下)の日本代表に選出されました。日の丸が入った青い日本代表のユニホームを着て試合をするうちに、「自分は日本人なんだ」とようやく確信が持てるようになりました。対ジャマイカ戦で、相手の国歌が流れた時には何も感じませんでしたが、「君が代」を聴くとピンと背筋が伸びました。そして、会場から大きな声援を受けると、自分が日本人として認められたような気がしました。 19年には日本代表に初めて選ばれましたが、試合で活躍できないと、SNSなどに「ジャマイカで代表をやれ」「あの見た目で日本代表なんて」と差別的な言葉を書き込まれました。悔しいけれど、言い返しても解決しません。気にせず、放っておくようにしました。「自分は特別」だと思ってジャマイカ人と日本人、両方のいいところを備えているのが僕の誇り 僕は大人になってから、コンプレックスだった髪と肌の色が自慢になりました。サッカー仲間からは「武蔵の色、格好いいよな」と羨ましがられ、妻は「むっちゃんの髪、くるくるでかわいいね」と褒めてくれます。僕のように見た目やアイデンティティーで苦しんでいる子どもには、むしろ自分が特別なのだと思ってほしいです。体格に恵まれて陽気なジャマイカ人と、礼儀正しくて協調性のある日本人のいいところ。両方を備えているのが、僕の誇りでもあります。 サッカーから恩恵を受け、その恩返しをしようと思い立ち、4年前から、ひとり親家庭の支援や児童養護施設の訪問をサッカー仲間とともに続けています。最近の活動では、コロナ禍で困窮する世帯に食料などの物資を支援しました。複雑な環境で僕より苦しい思いをしている子どもたちに「今」を楽しんでほしくて、サッカー大会も開きました。子どもたちと接すると、逆に元気をもらえます。 今の僕の目標は、チームで活躍し、日本代表にもう一度戻ることです。再び日本代表でプレーすることができれば、僕と似た境遇の子どもたちをまた勇気づけられると思うのです。 差別やいじめはする側が、100%悪い。でも、完全になくなることはありません。転校したり、学校を辞めたりして逃げ出したっていい。つらい思いをしているみんなが今いる場所は本当に「小さな世界」です。得意なものを見つけ、ただひたすらに磨いていけば、いつか見返せる時が絶対にやってきます。   鈴木武蔵 (すずき・むさし) ジャマイカ生まれ。6歳から日本で生活を始め、桐生第一高(群馬)では全国高校選手権に同校として初出場を果たし、初戦でハットトリックを決めるなど8強進出に貢献。2019年に日本代表に招集された。高校卒業後にアルビレックス新潟、コンサドーレ札幌などを経て、現在はサッカーJ1・ガンバ大阪に所属する。 あわせて読みたい  悩んだときの相談先一覧…SNSでも相談できます 小さな目標、1日乗り切る…亀田興毅さん「達成することで強くなる」 コンプレックス武器に変え五輪へ、大林素子さん「悔しさ、いつかパワーに」 母に代わり日々家事、徳井健太さん「つらい環境変えてもいい」…STOP自殺 #しんどい君へ

「ハンバーグ」と呼ばれ外見に孤独感、サッカー・鈴木武蔵さん「好きなもの磨けばいつか見返せる」…STOP自殺 #しんどい君へ2024-03-25T16:15:32+09:00

「いじり」と「いじめ」の線引きは? 言葉の暴力受けた大林素子さん「悔しさ、いつかパワーに」…STOP自殺 #しんどい君へ

2024-03-25T16:15:31+09:00

大林素子さんの動画はこちら元バレーボール選手 大林素子さん 56歳 日本人初のプロのバレーボール選手として活躍した大林素子さん。子どもの頃から背が高く、周囲から「デカ林」「ジャイアント素子」などと言葉の暴力を受けてきました。さらに、その高身長ゆえに「自分の夢はかなわない」と絶望しますが、バレーボールとの出会いで、コンプレックスを強力な武器に変えることができました。大林さんは「今の環境だけにとらわれず、どうか外に目を向けて」と訴えます。 15歳で1人で生きる決意、本屋大賞の作家・凪良ゆうさんを絶望から救った「物語」…STOP自殺 #しんどい君へ 言葉の暴力に苦しんだ小学校時代五輪3大会に出場するなど、バレーボール選手時代には、輝かしい実績を残した大林素子さん 身長が1メートル84ある私は、幼稚園の頃から 周りよりも頭一つ分高く、身体的特徴への「言葉の暴力」に苦しめられてきました。 小学校入学後も、身長は速いスピードで伸び続けました。体が大きい上、名字には“大”が入っています。男子たちの格好のからかいの的となり、「デカ林」「ジャイアント素子」「巨人」「でくの坊」「大女」など心ないあだ名をたくさん付けられました。教室で私の後ろに座る男子からも、「前が見えない!」と言われて。芸能界で仕事をしている今では、ネタとしていじられることもありがたく思えるようになりましたが、昔は本当につらかったですね。 当時は団地に住んでいて、近所の子もクラスの子も同じメンバーで変わらず、逃げ場がありませんでした。言葉の暴力でいじめられるのが当たり前になると、発言もせず、目立たないようにしようと、どんどん消極的になっていきました。少しでも背を低くしようとずっと猫背にしていましたが、その癖は今も残っています。小さいころは、背が高いことで悩み、いじめにも遭った そんな私でしたが、幼い頃からかわいらしい服やドレスが好きで、アイドル歌手や「宝塚」の娘役になれたらと夢見ていました。でも、周りからは「娘役は小さくないとできないよ」「無理だよ」と容赦なく言われて。 父は1メートル77で祖父は1メートル82と身長が高く、自分の背の高さも遺伝なのだろうと思いました。「ああ、自分ではどうにもできないことで、夢がかなわないんだ」と絶望しました。 周りからの言葉の暴力もやむことがなく、小学4年生のときには「もう死んだ方が楽じゃん」と思い詰めました。家族で暮らしていた団地の最上階だった11階に行き、2回ほど靴を脱ぎました。「でも、このまま死んだら、このつらさは誰にも伝わらない」。悔しく感じ、自分の部屋に戻って誰にどんなふうにいじめに遭ってきたのかを紙に書き殴りました。そうこうするうちに「なんで私が死ななきゃいけないんだ」と冷静になり、思いとどまりました。「いじめっ子を見返す」バレーボールと出会い、芽生えた闘志バレーボールと出会い、中学でバレー部に。高校、実業団で頭角を現し、五輪出場の夢をつかんだ 外でも「でかい!」と言われるのが嫌で、小学生の時はテレビっ子になりました。そして、その頃放映していた人気アニメ「アタックNo.1」が、バレーボールと出会わせてくれたのです。 いじめなど様々な試練に負けず、ひたすら練習に打ち込み、不屈の精神で五輪出場をめざす主人公。その姿に憧れるうちに、「バレーボールでは背の高さが武器になるかもしれない」と思ったのです。そして、「五輪に出られたら、自分をいじめてきた人たちを見返せる」と闘志が湧いてきました。 中学でバレーボール部に入部しましたが、運動をしていなかったので下手でしたね。顧問に怒られながらも練習に励み、中学2年の秋には、近所にあった実業団の強豪・日立の監督に「五輪選手になりたい」と手紙を送ったのです。当時の日立バレー部は、後に五輪に出る日本代表選手が複数在籍している強豪チームでした。 熱意が買われたのか、「本当に五輪に出たいのなら」と監督は練習への参加を特別に認めてくれました。当時私は身長が1メートル76ほどになっていたので、体格も買われたのだと思います。それからは、授業と部活の後に、日立の練習に休まず通いました。チームの上下関係は厳しく、一日の練習時間は8時間ほどで内容もハードでしたが、必死に食らいつきました。 高校は春の高校バレーの優勝常連校である八王子実践高校に進学し、在学中に日本代表に選ばれました。卒業後は実業団に入り、ついに1988年のソウル五輪に出場し、夢をかなえることができたのです。嫌だと感じたら「いじめ」 相手の気持ちを考えて バレーボール選手として知られるようになったら、私をいじめていたかつての小学校の同級生たちが実業団の練習を見に訪れたのです。「サインが欲しい」と言われましたが、断りました。心の傷は癒えていませんでした。 そして再訪されたとき、意を決して、「いじめられてすごく嫌だった」と伝えたのです。すると、彼らは「そんなつもりじゃなかった」と驚いた様子で。いじめている自覚がなかったようでした。悔しさ、つらさをパワーに変えられる日が、きっとやってきます からかいの「いじり」と「いじめ」の線引きは難しいですが、されている方がつらく、嫌だと感じたら「いじめ」なのだと思います。いじめられた方は、どんどん追い詰められ、気持ちもふさがれてしまいます。自分がふざけて投げかけた言葉を相手がどう受け止めるか、相手の気持ちをよく考えなければいけないと思うのです。 私と同じように、身体的特徴など自分の力で変えることができない悩みを抱える子もいると思います。でも、いつか新しい世界や価値観に出会うチャンスが訪れるはずです。私はテレビアニメをきっかけに、バレーボールを始め、コンプレックスを武器に変えることができました。みんなも、いじめられている悔しさ、つらさなどをパワーに変えられる日がやってくると信じています。   大林素子 (おおばやし・もとこ) 東京都生まれ。五輪は1988年のソウル、92年のバルセロナ、96年のアトランタの3大会に出場した。29歳で引退後は、タレントや俳優としても活躍。日本バレーボール協会の広報委員のほか、今年5月、バレーボール・Vリーグ女子2部のブレス浜松のゼネラルマネジャー(GM)に就任した。 あわせて読みたい  キンタロー。さん、八方ふさがり「あきらめないで」 避けられ暗く厳しかった中学時代、ナダルさん「やまない雨はない」 城田優さん、命絶った大切な仲間と“あなた”に送る「人生、ケセラセラ」 「ハンバーグ」と呼ばれ外見に孤独感、サッカー・鈴木武蔵さん「好きなもの磨けばいつか見返せる」…STOP自殺 #しんどい君へ

「いじり」と「いじめ」の線引きは? 言葉の暴力受けた大林素子さん「悔しさ、いつかパワーに」…STOP自殺 #しんどい君へ2024-03-25T16:15:31+09:00
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